スペース寿司

とあるオタクの生活記録

懐古

 センシティブな内容を含みます。

 

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

 

 

特定の世代を殺す存在。と言われて真っ先に浮かぶのは彼女である。

 

私が彼女を知ったのは彼女が亡くなってしばらく経ってからだ。同級生に手首をカットしてしまう系の子がおり、その同級生から本を譲り受けた。
初めて読んだ時の衝撃と言ったらない。
当時これだけ読みやすい文体で、ちょっと普通でだいぶヤバイ文章をこれだけの数生み出せるJKなんて神様に等しかった。
自分を傷つけてしまう行為をして、薬をコスメのように集めてコレクションして、規定通りに飲まず、気になる薬を処方してもらうために医者をいかに説得するかを考えるという倫理ゼロの壊滅ぶりを見せつけながらも、普通にさらっと書かれる学生生活だったり、友人とのおしゃべりだったりカラオケだったりのゆる~いくだり。でもたまに見え隠れする、思春期の漠然とした強い不安や、もっとそこの見えない心の荒れ模様。
意味の分からない世界すぎて、却って何もかもが鮮烈で、無性に惹かれてしまった。
こんな人がいたのかと、ナチュラルに衝撃だった。

本に載ってない彼女の日記は当時WEBでほぼ公開されており、私はそれも読み漁った。

そして時を同じくして。世は精神系と呼ばれるウェブサイトの全盛期であった。めんへらが自作ポエムとか小説とか撮影した画像とか日記を綴るサイトがたくさんあったんですよ。
もちろん、彼女のWEB日記がそのブームの中心にあったのは間違いない。
私は割とそれをよく覗いていた。
その世界では、ほとんどの方が「尊敬する人」という欄で彼女の名を挙げた。もうこの世にいない彼女は神格化されていた。やばい人気だった。
その界隈は彼女のようになりたい、という人たちであふれかえっていた。
どういう意味で「彼女のようになり」たかったのかは分からないし、深く考えないようにしている。

ただ、実際に管理人が彼女と同じ末路を辿ったサイトは少なくない。
「つらい」「つかれた」「また******した(文言割愛)」「通院」「あのお薬ほしい~」っていう内容が延々続く日記に、ある日突然「管理人の代理です」って書き込みあるんですよね。
それが本当か嘘かまでは分からないけども、もし真実だったらと考えたら、あの世界は異常だった。あれが普通、またはあれが「かっこいい」という空気が当然のようにあった。実際はそうじゃないということを知らないと、麻痺する世界である。

 
だがしかし、ポップで読みやすい文体で書かれたあの日記は、私の思春期にものすごい爆弾を残してしまったのである。
上手い下手とかではなく、伝える力がそこかしこにみなぎっていた。だから影響力があったのかな。とにかくすごかった。
まだネットがそこまで浸透しない時代に、カリスマとして存在していたのは、やっぱり意味があるんだと思う。


最近某詩人の展示を見てきたんだけども、そのときふとその頃を思い出した。
その詩人は別に、手首がどうたらとか薬がどうたらと言うわけではないが、ただとても繊細な感覚でものを書く人である。
だがしかし残念ながら、私はそこに没頭できるほどの心の土壌はなくなっていた。
いいなあとは思っている。
友人と「こういうのを思春期に読んでたら刺さってたんだろうね」とぼやいて回転寿司食べて帰った。
あの詩人を通った今の若者たちが未来のなにかをつくるのかもしれない。

大切に読んでた本は、もらってからしばらくして、これを盗み読みして内容に怒り狂った母によって捨てられてしまった。
Web日記はもう何年も前にネットから消えた。
最近電子書籍で出ているのを知って、あらためて買った。

やっぱり読みやすかった。ただ、自分を傷つけるところの描写がたまに読めない。普通に想像して貧血起こしそうになるのである。耐性そんな低くはないんだけど、特定の条件がそろうとそうなりがち。昔そんなことなかったはずなので、これが自分の変化なんだと思う。

彼女は故人だ。否定も肯定もしない。意味ない。そんなの野暮だ。
彼女のことをこれからの世代にも知ってほしいとかそんなことも思わない。
少しずつ検索されなくなり、少しずつ時間の流れの中で風化する存在であってほしいとも思う。彼女に憧れてはいけない。美化してはならない。美談ではない。神様ではない。そういう存在ではないのである。

ただ、この歳になるまで私のよくわからない心と記憶の特定の位置にいるのだから、私の何かを作っていることは間違いない。それが文体なのか感覚なのかなんなのか自分でもよくわからない。でも彼女はずっと私の特別枠だ。
私はたぶん、死ぬまで「あやちゃん」を忘れられないのではなかろうか。