スペース寿司

とあるオタクの生活記録

怒りは力になるか問題

リンクは敢えて張らない。

後ろを向くなというが、後ろを向くことを日常的にしていたのでなんとも言えないという話。

前提として、私はいずれの考えも否定するわけではなく、好き嫌いを大いに反映した自分の話をしているだけである。
できる人はやればいいと思ってる。
表現活動は感情や性格やメンタルと結びついたものだから、人の数だけ哲学がある。

 

出したもの、書いたものに対し反省するしないとか、反応気にするしないとか、大事にするかとか、さっさと見切りつけて次に行くかとか、そんなことくらい自由にさせてくれよってちょっと思う。
何がいいとか悪いの話ではないだろう。

マ.の記事で苦手なのは、アイデアや思考の組み立て方以外の、結果として個人ごとに起こり得る感情までもコントロールしようとしているところである。
そういうとこにまでいちいち踏み込んでくるのが正直かなりキツい。
捉え方、考え方まで数種類に絞られたり、限定されたらたまったものじゃない。

「繊細やくざウザい。過敏に反応しすぎ」ってなるかもしれないけど、あの記事の影響で「次行こ!次!」「つくるってたのしー!」のキラキラストリームに囲まれたら私は即爆発してしまう。いいことだとは思うけどさあ。
神話なんですよ、そういうの。私からすれば。
絶賛の意見が多いから天邪鬼が発動しているだけかもしれないが、考え方の取捨選択をしたとき、あそこに書いてあることを私が取り入れる率は半分くらいだ。実践的な意見はかなり「そうだな」と思って見ている。



振り向くことの優先順位を下げて「とにかく数やることが大事」って切り替えることにも向き不向きがある。
そういう人たちも、そうでない人もたくさん見てきた。それでうまくいく人もいれば、いない人もいた。
数は「慣れ」をつくってくれても上達に直接結びつかない。
数=上達ではない。数≠上達。≠をどうイコールにするかってところ。


私は大事にするぞ。あの記事がなんと言おうと。
ゴミだつまらない、へたくそと自分で思いながらめちゃくちゃ落ち込んで、それをとりあえず一旦忘れて、また書きたいものを書いて、また落ち込む。
でもそれが私のやったことなんだからしかたない。それを大事にする。
運よくコメントをもらえたときは少し報われた気がするし、また頑張ろうと思う。
そんな中でたまに「自分なりに頑張れたな」と思うものが作れたりする。
多分これが私の中にあるパターンなんだと思う。
それが蓄積なら仕方ない。そこからしか私は学べない。
振り返ったとき蓄積の雰囲気が少しずつ変化していれば嬉しいなとは思うが、今のところその兆候はない。

本当はもっと上達した状態でABと出会いたかった。
もっと美しく楽しくかわいくエロくABを書けていたらどんなにかよかったことか。
そうずっと思いながらABを書いている。


正直、前向きな理論だけが正義で是とされる風潮を見てると、二次創作をやりつつ愚痴ブログをやっていることすら悪に思えてしまって、内心辛いのだ。
ここはアンビバレンスなものを抱えてそれを吐き出すための場所であるというのに。
こんなことで悩むのは結局私だけなのかとそう思ってしまう。