スペース寿司

とあるオタクの生活記録

すいすいみー

補足というか、交換日記です。

じゃあ「楽しい」ってなんだろうなと自分を掘り下げて考えていました。

私は文章を書く能力が低いから楽しくないだけで、そこそこ書ける能力がついたら、スイスイスーイって楽しく書けるもんだと思ってたの。スキーとか水泳みたいなイメージ。

小説を書くのみんなしんどいっぽい - 緩やかな変化

 

「書く」「描く」以外にも「楽しく〇〇しました」シリーズってどこにでもあると思う。私はここで一番身近(だった)な例として声の話になってしまうけども。

求められます。「楽しく〇〇しました」「楽しく〇〇してます」感。
たとえ本人がそう思ってなくても、表向きそう言って、そういうふうに相手に感じさせられれば勝ち。(ここで言う「相手」は所謂「使う側」になるえらいひとという意味)
第一線には立てず第五線くらいにいた私たちにすらそれは求められた。

彼らはへーきで言う。
「『楽しそうにやってて』『気負ってなさそうな自然体で』『でも真摯な姿勢を見せ』『人間力のある』ひとが選ばれる」って。

えーうそー。いる?そんな人???

がんばってそういうふうに装ってみたことがありましたが、ボロは出るものでちっともうまくいきませんでした。

結局「そう思わせることに成功した一部のノリのいい人間」(≒酒の席で頑張れる人間)とか「単純に好みにハマった人間」なんかがここから勝ち抜けられる。
私はそこにも入れませんでした。はい、負け犬。このへんの話は色々ややこしくて補足することも増えてしまうのでこういうざっくり感で終わる。

それはともかく全般概ね「楽しく」なかったあちら側も、楽しいと思うこともあった。
それはどういうときか。
「自分の能力をどう使えばいいかある程度わかっている」
「自分に需要があるとある程度わかっている」
の瞬間である。
この読みが外れて現場でボコボコにされた怖い話なんて山ほど聞いてきているが、それは今回語らない。

こういう場では人は自由に、そして楽しくなる。
思い通りの感じでやる→「もうちょっとこうしてみてください」的な指示が入る→やってみる→OK!→確かな手ごたえ!
みたいな良ループが生まれる。
まあこの「OK」が実は妥協の末でその後まったく声がかからなくなるとか違う人にすり替わっているという怖い話もあるがそれも避ける。

だから、ある程度自分のスキルを把握していて「自分が許されている場」においては

フォームを身につけてそれなりに滑れる(泳げる)ようになったら楽しいじゃないですか。

小説を書くのみんなしんどいっぽい - 緩やかな変化

 
この感じはある。言えるときはある。たのしかったですと。
ただ、さすがにそこに行くまでに試行錯誤はある。色々資料とか見てパターン考えたり、どういう体勢でどこの筋肉使ってんだ?て考えてみたり、どう言えば特徴的になるかなとか考えたり、まあそれは個人のこだわり。

実際やってみてから、「あれはうまくいかなかった」て後悔することもある。
※どんなに自分が納得いかなくてもえらいほうが「OK」て言ったらもうOKだと思うしかない。

けれどまあ、概ね楽しく〇〇しました。っていうのが成立する場もある。
ある程度の技術と運が良ければ。という話。
なんでこんなこと言うかっていうと、私にその場があるから(あったから)です。
私は超うまくもなく、選ばれた側でもなかったけど、ドヘタでもなかった。(そう言っておきます)正直すごくへたくそだったけど、練習して、少しは仕事もできるレベルにはなった。
表向き大きなことはできなかったけど、世間に残せたものがあります。
それで喜んでくれている人がいる。それをこの目で見たからです。

納得いってないもの、聴いて恥ずかしいものもあったけど、たのしかったなーと思うものもある。

だから、ちょっと書ける人、すごく書ける人、すごーーーく書ける人とかは、この感覚があるんじゃないかなと思った。
自分がわかってて、なおかつオーディエンスがいるという確証もある。
強気に振る舞えますね。
試行錯誤すら楽しいよ。だって出来上がるものがゴミになるだなんて微塵も想定してないし、実際ゴミじゃないから。
自省するにしたって、私のようなものとは違うとこで反省したり悩むんだよ。
あーーーーうらやましい。

そうなるためには何をすりゃいいかって、声と同じだよね。
やるんだよ。

おえー。


※相変わらず検索に引っかかりたくないのでぼかしている。

わかりにくい部分はすべてわざとである。