スペース寿司

とあるオタクの生活記録

回答になっていない

おそらく広義のリアコ経験者なので交換日記をする。
まず私もおそらく「好き」はバロメーター式である。
現実非現実の区別をつけず、同じ種類の感情を向けていると思う。

無関心→興味→好き(小)→好き(中)→好き(大)→→→信仰

そう。私の好きの頂点は信仰である。
頭おかしいんじゃねーかと言われそうだがこの感情に名前をつけるとしたら信仰以外に何がある、と小手先文法で語ってしまうほどには信仰である。

信仰だから絶対領域だ。自分が安易に立ち入ってはいけない。自分などというものはその偉大なる領域に入ってはいけないし、外側から推しを眺められればいいし、それでいい。自分という概念を推しのそばに置くことが罪深くてできない。
だからいつもなるべく遠くから拝もうとする。
私が所謂「夢」が苦手だったのはそこを軽々と越えようとする神経が理解できなかったからだ。最推しのいる世界で成立しているパワーバランスや人間関係に自分を捻じ込んだところで、推しのすばらしさを鈍らせるだけだという考えである。

なんでホモ妄想してんだよ信仰で。それはそう。

そこは別腹であるという適当な回答になるが、それが原作をずっと見てきたうえで、推しと同じ世界に生きる者たちの中に、推しを幸せにできて、なおかつ推しが幸せにできる相手がそこにいたからである。

人生で信仰レベルになった推しは過去で3名である。
うち2名で二次創作をした。つまりそういうことなんだろう。


二次創作に触れなかった1名はもう本当に四六時中ドキドキしてた。画像フォルダがこの人だらけになった時期もあった。本当にかっこよくて、発する言葉全てに憧れた。
気持ちわかりますよ。今思えばあれは正真正銘ガチ恋だった。


私は長らくずっと喪だったので、リアコとリアコじゃない人の「好き」という感情の取り扱いの差っていうのは現実で恋愛をうまいことできたかできてないかの違いで生じる差だと思っていたけれど、どうやらそうではないっぽい。彼氏いるけどガチ恋とかいるじゃん。どんだけ贅沢なんって思うけど(このブログは喪ブログではありません)

自分がようやく人と付き合ったときに相手にあったのは好き(中)~好き(大)である。
キャラに置き換えると、グッズを買ったりするレベル。
だがしかしそう思うと、信仰まで達するのはやっぱり自分とはかけ離れたとこにいる存在だけなんだよなー。
フシギダネ