頓挫してしまった本をどうするか。新しく作り直すか。
推しのバレンタインは書けていない。あー書きたい。推しの幸せに生きてる光景を量産したい。力が欲しい。
今日はリンクが多い。
説明…誰がどう読んでも、一通りの読み方しか出来ない 描写…人の気分や状況によって、いろんな読み方ができる
「面白さの構造」を読んで6 ―納得感を作るもの。リアリティ・描写・説明の取り扱い説明書 - にこの創作&猫日記
からの
おにぎりを「三角形だ」って書くのは描写だけど、「美味しそう」は描写じゃない。 「お腹がなった」は描写で、「お腹がへった」は説明。 「部屋の床にものが散乱している」は描写で、「部屋が汚い」は説明。 こういう時は説明で、こういう時は描写で書いた方が効果的みたいなのがあるのだろうな。
(中略)描写と説明で上手いこと読者を道案内しないといけないんでしょう。描写で自由に散歩していいよってしつつ、説明で行かせたい方向に進ませるみたいな。
描写と説明 - 緩やかな変化
描写と説明。
私はすぐ言葉がゲシュタルト崩壊しがちでだんだんこんがらがってくるので、こういう認識をするように努力している(こう書くのはたぶん忘れてるときがあるからだ。心がけというものが薄いのだ)
物語は作れたがどんな文章で小説にしていいか分からない人のための覚書 読書猿Classic: between / beyond readers
大づかみなので、少しの文章で、長い時間の物語を伝えることができます。
わずか数行で何年、ときにも何百年もの時間を進めたりできます。
物語をどんどん進めたいときに《説明》は便利です。
(中略)
《描写》している間、物語はスローモーションかストップモーションになります。
困った時の読書猿様である。
なお、もっと大事なことが書いてある部分がきっとあるのですが、私がとにかくこれだけは頭に入れておこうと思ったのがこの一説なので、ここを引用しているだけです。
自分の手癖を振り返る作業もいると思うのでたまにはしてみる。
描写の最中はスローモーションかストップモーション。
私は、地の文を「推しのモノローグ」のつもりで書くタイプである。
モノローグということはつまりナレーション。そのナレーションには映像がついている。推しの目に映る景色、攻めなり受けの姿、家族の姿、友人たちの姿、その他などなどである。このナレーションのときが高確率で「描写」に直結していく。と思っている。
そこにあるものを「説明」するときそれはひとつの光景や人物に過ぎないが、そこに推し(ナレーター)の感情が重なった「描写」がついたときに物語の大体の雰囲気が決まっていく。(明るいか暗いかみたいな話)
なにかひとつの景色なり人物を見て思いを巡らせる推し。
その時まさに世界はスローモーション。
幸せな光景なら、それを肯定的に明るく。暗いシーンなら否定的に薄暗く。って感じがやりやすいと思う。わからんけど。
私はどちらかというと「淡々と書く」のを選びがちである。淡々は便利だ。どっちにも振れる。
このとき、自分の中の映像の尺と、書きだせるナレーション原稿の文字数が合わないと、かなり気持ちが悪い。
結果問題ない思うときもあるが、大体は少し物足りない感じになる。
それを埋めるために登場するのが「会話」である。
多分所謂小説作法としてはアウトなのであるが、ここで台詞をねじ込むと、(うまくいけば)推したちに「動作」が生まれるのでそこで少しだけ時間がつなげられる。
説明するのが苦手だしだんだん私何様なんだろうって思えてきてげんなりしたのでこのへんでぶつぎりで終わっていいですか。
こういうところなんだよな。
今日も気圧がつらかった。
偉そうにすみません。更新と本のこと考えます。後悔したくない…。